無銘―ネームレス
Retribution for commandment

 

プロローグ 蒼崎尊/心象風景

 

夢を見る。

 

夢を見るといった行為は蒼崎尊たる私にとって珍しいことではない、普遍的で日常的で習慣的、そして。

 

それは“望ましい”こと。

 

私は私の望みのまま毎夜夢を見続ける、いつも同じ、そして変化を続ける夢。

 

人間は毎晩のように夢を見る、睡眠時に脳が活動している時間、レム睡眠状態の際に脳が見せるものが夢だが詳しいことは割愛、私も良く知らない。

 

只、普通夢を毎晩見ていたとしても夢を見る当事者はその夢を見ていたと言うこと自体記憶していない、記憶に残らないということは“見ていない”と同義。

 

記憶に残るからこそ見たと認識するのが人間。

 

毎夜私は夢見ることを願い、夢を殆ど記憶し夢の中で意識的に行動しているのだから、見ている夢の種類は明晰夢となるのかもしれない。

 

毎夜私は夢を待ち望んで眠りにつき、眠りから覚めるのを恐怖して眠る、永遠に眠ることを望んでいるが、目覚めてしまう。

 

目覚めなど望んでいないのに。

 

目覚めることが人間である限り仕方の無いことということはわかってはいる、いつまでも眠り続けるわけにはいかないし、出来ない。

 

それに永遠の眠りは死と同義、生物的に死が訪れていなくても客観的に死んでいるだろう、他者から見れば目覚めぬ人間と、息をせぬ人間にどれだけの違いがあろうか、生とは動き思考し言葉を吐くことで意思を示すことで成り立つ。

 

意思を示せない肉体など屍と変わらない、その肉体は各種化学物質の集合体に過ぎず、邪魔なゴミと変わらない価値しか残さない。

 

只私に塵以上の価値なんてものがあるのかどうかは私にはわからない

 

でも私は死を望まない、思考を失えば夢も失う、だから私は死を拒否する。

 

だけど目覚めも望まない、私の見る夢は甘美に過ぎる、私が死を拒否するのと同じくらいに。

 

矛盾した“願い”、矛盾した“思考”。

 

眠るたびに望む、永遠に目覚めないことを、死ではない仮初の死を、だが死を望むことと何が違う。

 

“仮初の死”と“死”の差は?

 

起きるたびに目覚めを呪う、仮初の死が訪れなかったことを呪う、矛盾した“願い”が適わないことを。

 

眠りを愛し、目覚めを呪う。

 

仮初の死を望み一日息をする。

 

私、蒼崎尊は“本物”を望まず、“仮初”を望む、それも仮初の歪な死、そして永遠に夢見ることを願う女。

 

 

 

 

 

眠り、夢に執着するのは夢の中で会える女の子、小さな女の子、まだ6歳にはならないだろう可愛い女の子。

 

黒髪が長くて色が白い可愛い元気な女の子。

 

止まることを知らないようによく喋り、よく動く。

 

仕草に落ち着はなく、いや落ち着きの無さは年相応なのだろうけど無邪気さで笑いかけてきて、顔をまるで万華鏡のように変化させる女の子。

 

漠然とした愛しさを教えてくれた女の子。

 

夢の中で私に違った表情を見せてくれる、笑顔、拗ねた顏、何かに困った顔、泣き顔、様々に、どれもが愛しい、心が騒ぐ、乱される。

 

夢の中で女の子に話しかけたり、共に食事をしたり、遊んだりする、もしかしたら私があの子に遊んでもらっているのかもしれない。

 

私は子供の遊びなんて何一つ知らない、子供の喜ぶことなど考え付かない、話すことだってそれを考え出すのに必死になっている自分が夢の中にいる。

 

普段の起きているときの私からは似ても似つかないだろう、子供に必死になっている姿なんて。

 

あの女なら大笑いするだろう。

 

でも、あの子は本当に可愛らしい笑顔を見せてくれる。

 

あの子は私の仕草一つに喜び、その喜びに私も喜び、喜んで貰おうと私は不器用に何かする。

 

でもちょっとしたことでも泣いてしまう、私はあの子が泣いてしまうのはどうも嫌。

 

他人が泣こうが喚こうが頓着しない私なのに、何故かあの子の笑みは愛しくて、悲しそうな泣き顔は特に。

 

痛い。

 

どうしようもなく痛い、判らないけど痛い。

 

痛み、あの子が泣いていると言う事実は我慢ならない、だから泣かせないように注意している、私のせいで泣かれるのは一番痛いから。

 

だけど、あの子との戯れはとても楽しい、とても安らぐ、とても乱される。

 

夢の中だと言うのにあの子がとても愛しい、何事にも代えがたいぐらいに心が揺さぶられる。

 

愛しいって事がなんなのかもよく分からなかったのに、あの子に“会う”まではその言葉の意味なんて欠片も判らなかった。

 

でも今は漠然と判る、あの子が夢にいなかったら悲しい、辛い、泣かれると痛い。

 

微笑まれると嬉しい、私の手を握ってくれると暖かい。

 

この感覚は愛しいってことじゃないだろうか、この寂しさと暖かさ。

 

愛しいって言う感情は、何かががない交ぜになった感情だと思う。

 

あの子に感じる愛しさに嬉しいと辛い、寂しい冷たさと触れ合う暖かさを同時に感じる、背反する感情が私の中にある、これが“愛しい”と言うことだと思う。

 

そんな漠然とした“愛しい”を私に教えてくれた、あの子。

 

でも一つだけ判らない。

 

あの子は私のことを名前で呼ばない、教えたはずなのに呼んでくれない。

 

いつも私を“・・・・・”と呼ぶ。

 

“・・・・・・”あれ、何て呼ばれていたんだろう。

 

思い出せない、あんなに暖かい言葉なのに、思い出せない。

 

私がなんて呼ばれていたか。

 

思い出せない。

 

でも、暖かいのは覚えている、暖かい言葉だと言うのは。

 

あの子がその言葉を口にするたびに私は満たされ、“・・・・・”と呼ばれる度に心が暖まるのを覚えている。

 

そう呼んでくれる夢の中のあの子、私が愛しいと思う女の子。

 

夢の中であの子と過ごし、目を覚まして寂しさを感じる。

 

だから起きている時間が嫌い、冷たさを感じる時間が嫌い、あの子の暖かさを求めて焦がれる時間が嫌い。

 

眠りの時間を愛すると同じくらいに目覚めを憎悪する。

 

 

 

 

 

だから矛盾した“歪な死を”望む。

 

“死”を否定して“歪な死”を肯定するという矛盾を。

 

 

 

第一段階  支配眼――Eye of reign――

 

 

 

1.傍観者/撲殺者/殺人風景

 

木製の洋館、薄暗く古ぼけているが廃墟としての雰囲気は感じられない、手入れのされた古さとでも言うのか。

 

建築物内の部屋にある調度も趣味は悪くはない、華美なものは見当たらないがこの古い建築物に相応しい落ち着いた品が配置され、その場に溶け込むような品が部屋の一部として機能している。

 

初めからあるのが当然のように家具が配置され、彩る小物が部屋を一層居心地のいいものに変えているのだろう。

 

評価としては趣味のいい部屋、部屋の持ち主の美的感覚も悪くなく、このような落ち着いた雰囲気を好む人物像が推測される。

 

そう、一見するだけならば。

 

その程度の推測は簡単な観察から導き出せる、勿論観察と言う行為には観察者の主観が介入するため一概には規定出来るものではないが、悪い印象を抱くものは少ないだろう。

 

だが、部屋をもう少し深く観察すれば印象は変わることだろう、勿論変わらない人間もいるだろうが、それは主観者の問題。

 

この部屋の異質が感じられるなら。

 

その異質、違和感を察せられるなら。

 

違和感、感覚の鋭いものならば部屋に入った瞬間に訴える異臭。

 

少し目を凝らせば部屋の異常な痕跡。

 

感性の鋭いものならば怖気に走り気分を悪くするだろう気配。

 

違和感は不快感に変わり異質さを際立たせる、より一層に。

 

生物としての本能を持つならば、その異質さ故にこの部屋に立ち入ろうとはしない、関わろうとなど思わない。

 

何せこの部屋は狂っている、狂気が染み付いている。

 

 

 

 

 

だけど狂うとは狂気とは何だろう。

 

 

 

 

 

饗宴。

 

部屋の持ち主にとっては紛れも無い饗宴、異質な部屋に相応しい饗宴、いや言葉がおかしいか“この部屋に饗宴が相応しくなった行為、そして異質さの根源”。

 

部屋の持ち主たる男性、饗宴を楽しむ者。

 

表情に悦びを張り付かせた男、無邪気な悦びを、男の年齢を鑑みればそれは精神をおかしくした人間の笑み。

 

普通の人間はそんな無邪気には哂えない、哂える筈がない。

 

生活に、日常に生きる人間に社会に生きる人間にそんな無邪気さは成長で失われる、人間は成長することで純粋さを失う、子供の頃当たり前に持っていた純粋さは年月と共に色褪せる、それは悪い事でも善い事でもない“当たり前”。

 

どんな生活をしていてもそれは“当たり前”何時までも無邪気ではいられない。

 

生きるのにそんな無邪気さは邪魔だから、いや害悪ですらあるから人は成長で削り取っていく、年を経るごとに。

 

だが男は無邪気さを顔に張り付かせている、あるはずの無い無邪気さを湛えた仮面のように。

 

それは子供の無邪気さだ、無邪気さは子供しか持ち得ないのだから、子供しか持ち得ないならその男は子供なのだろうか。

 

子供は純粋なものだ、特に幼子は。

 

だけど、純粋とはどういうものだ?純粋とは何も混ざっていない、異物が無い、単一だということ。

 

では純粋とは何を生む。

 

男にとっての“純粋”とはなんだ。

 

 

 

 

 

時折男は哂い、無邪気な顔から哂い声を漏らして体を動かし其の度に鈍い音が室内に響く、其の度に男は楽しそうに哂う。

 

哂い、動き、鈍い音が部屋に響き、また哂う。

 

繰り返される、何度も何度も、飽きる事無く。

 

時折、近くの机に置いていたワインを取り美味そうに喉を湿らせまた楽しそうに繰り返す。

 

幾度も部屋に鈍い音が響く、音だけが響く、その行為が男に張り付いた無邪気な仮面の哂いを一層深くしていく。

 

男は純粋に行為を楽しんでいる、純粋に吐き気のする行為に悦びを共にして行っている。

 

鈍い音は硬い骨が人間の肉を撃つ音。

 

男の動きはその音を出させるための動作。

 

男の哂いはその動作がもたらした男に与えた快楽。

 

男は人間を痛めつけ、痛めつけた人間の反応で哂っていた、其の度に顔が無邪気に歪んでいく。

 

その様子はお気に入りの玩具に戯れる子供の様に。

 

ただ玩具は生きた人間の女性、女性が男に快楽を与える玩具。

 

既に玩具とされる女性の容姿は判別しない、判別できないほどに殴打され腫れ上がっている、身につけているものと体のラインから女性とわかるだけ。

 

全身が殴打されたのか服は乱れ、肌は内出血でどす黒く変色している。

 

体の各所に骨折や皹があるのだろう、それに折れた骨が肺に突き刺さっているのか、それとも咽喉を潰されているせいか呼吸音もおかしい。

 

数本歯が抜け落ちた口元から吐息と共に血が漏れている。

 

原型を持たない顔は鼻が潰れ、頬骨が砕け片目が抉られている、本来なら綺麗であろう黒髪も無残な様子で頭皮から血が垂れ、髪を血で湿らせている。

 

まるで壊れた人形、でも感情と意思を持った人形、否人間。

 

殴打され、暴力により蹂躙された体は既に意識など保てるはずが無いのに女は立ち、残った片目は恐怖と怯えの混じった目で男を見つめ、口は何かを言おうと口を動かすが声が出ない。

 

必至に声を出す動作をしているのにその喉から音が出ていない、呻き声さえも。

 

まるで声を出せないかのように。

 

そして立っている、立つ力など枯渇している筈なのに立っている。

 

それが女の意思とは思えない、表情は脅えに染まり、目は諦観を湛えた彼女に立つ気力など、立つ意味など無い。

 

立つ体力も気力も理由も無いのに立っている。

 

そんな彼女が立ち上がる度に男は更に無邪気に哂い出す。

 

男に殴打され、体を傾かせる度に体の損傷は酷くなるのに女は立ち、男の暴力に、否遊戯に体を蹂躙される。

 

その様は悲惨に過ぎる。

 

まるで乱暴な子供に扱われる玩具、そんな子供に乱暴に扱い続けられれば玩具は最後には壊れてしまうだろう。

 

壊すことが目的でないにしろ結果的に壊れてしまう。

 

男の女への扱いはそんな乱暴な子供のそれ、無邪気な表情と相まってそんな連想をさせる、まるで遊んでいるという感想を。

 

そのまま女を殴打し続けた男は遂に女が立ち上がることがなくなった後、更に愉快そうに哂い、原型を伴わなくなった女の顔を眺め。

 

おもむろに踏み潰した、何とも判別しない不快な音を立てて。

 

繰り返す、喉を腹を腕を足を踏み潰しぐちゃぐちゃになった人間、飛び散った血を脳漿を人間の残骸を芸術品のように眺め最高に無邪気な顔で哂う。

 

手を女の血に染め、足に女の臓器を巻きつけ、顔に血潮を纏わりつかせて。

 

まるで化け物、無邪気な化け物。

 

 

 

 

 

入った瞬間に判るのは部屋にこびり付いて離れなくなった血の臭い、気付くのは飛び散って拭い切れない血痕、勘のいいものが気付くのは染み付いた死者の想念。

 

死者の感情、死の残滓、死の臭い、充満した死という概念。

 

苦痛に苛む恐怖。

 

理不尽に対する怒り。

 

理解できないモノに対する恐れ。

 

様々な負の感情が部屋に満ち、死の痕となる。

 

血臭や腐敗の匂いが染み付いて。

 

血痕が痕を残して。

 

満ちた負の感情は想念となり部屋にこびり付いて。

 

死の痕跡として、部屋を異質にする。

 

 

 

 

 

ある家庭の少女が一人帰らなかった。

 

そして永遠に少女は見つからなかった。

 

それはたいした事ではないだろう。

 

事実、長く悲しんだのは両親だけで周囲の人間は少女のことなどすぐに忘れ去ってしまった、だからたいしたことは無い事。

 

この国では普遍的に起こる家出少女の一人。

 

人間が一人消えたくらいどうって事無いこと。

 

 

 

2.日常

 

 

 

意識が覚醒する。

 

まどろみの世界が終わりを告げ、心地いい暖かさから引き剥がされる感覚、夢想の世界を離れ、私の体にリアルを告げる不快な感覚。

 

体に外気の冷たさ、街の音、存在する生の気配が嫌でも感じられ、私という存在を刺激される。

 

リアルに在りし音であり感触、夢想には無い雑音に刺激され、感じることが煩わしく感じる。

 

リアルの感覚が嫌いな目覚めに繋がり気だるい一日の始まりとなる、眠るときを焦がれる一日の始まり、価値を見出せない日常の始まり。

 

鬱陶しい。

 

何かあるのか、何も無いのか、それさえ分からない一日。

 

でもそんなことはどうでもいい、何があろうと私の心は目覚めた瞬間から徐々に陰鬱になり眠りを焦がれだすのだから、私の心を揺さぶる行為は限定的で久しく無い、正直最近は退屈も極まっている、まぁ“趣味”は滅多に出来るものでもないか。

 

未だ靄が掛かり、眠りのまどろみの残った思考を覚醒させるように頭を振り、今の陰鬱とした気分も共に振り払うように思考を呼び覚ます。

 

それで陰鬱が取れることなど無いと分かってはいるけど、そんな行為でも心に残る寂しさは消えないが幾分マシになった気がする。

 

「ふぅ」

 

私は息を深く吐き出し活動に出る、いつまでも横になっているわけにはいかない、人間である以上健康体では眠り続けるのは不可能、それに眠れずに横になっているのもそれはそれで苦痛、起きていたほうが気も紛れる。

 

暖かな寝床の感触は惜しいが冷たい空気の部屋に立ち。

 

素足の先から伝わるコンクリートの床の冷たい感触が一層私をヒュプノス(眠り)の世界から覚醒させる。

 

足から伝わる冷たさが心に残る寂しさを一層意識させ心を染め上げ、冷たさが私を更に陰鬱にするのを自覚する。

 

冷たさは私に寂しさを連想させる。

 

寂しさにも慣れた気がする自分がいるのもわかるが、慣れたところで楽と言うわけではない、慣れたからどうだと言うものではそもそも無いだろう。

 

時計に目をやると八時四十一分、あまり早いとはいえない朝の時間帯、視線を戻して私は夜着に着ている服を脱ぎ捨てる。

 

文字通りコンクリートの床に適当に放り捨てて、椅子にかけてあった丈の長い白いワイシャツと黒いパンツを身につけ財布、携帯電話をパンツのポケットに収め、腰の後ろのホルスターに拳銃、チェコ製のCz75、古い銃だが安定性や誤作動の少なさから、絶大な信頼を得て名銃と名高いものを収め、換えのマガジンも身に付ける。

 

腰の左側には小ぶりな刃渡り10センチ程度の飾り気の無いナイフを納め、まさしく武装を整える、こうすることで私の意識が完全に覚醒する。

 

武器を身に付けることで目が覚めるなんて私もいかれているな、そんな風に自嘲できるだけマシなのかはわからないけど、武器を身に付けないと落ち着かないのだから致し方ない。

 

最後に銀のロザリオ、何故か判らないが以前から付けている、付け始めたころのことは覚えていない、只惰性でつけている、つけない理由が無いというのもつけている理由になるのだろうか。

 

 

 

 

 

床も壁もコンクリートに覆われた味気ない殺風景な部屋。

 

私にとっては部屋の景観などあまり意味を為さないけど、他人が寂しい部屋と称しても「それがどうしたの」、と私は思うだけだと思う、この部屋に来る人間もあまり思い浮かばないけど。

 

部屋の端にある水道で手からじかに顔を洗う、水の冷たさは心地いい。

 

化粧はしない、する意義が見当たらないからしない、濡れた顔をタオルで乱暴に水分をふき取り、次に髪を整える。

 

私の長い髪を整えるために男性用の整髪料で撫で付けるように髪に付け、後ろに流す、鬱陶しい前髪が目に入らないと言う理由でこの髪型にしている。

 

後は適当に櫛を通して終わり。

 

髪を切らないのは、夢に出てくる女の子が長いほうがいいっていったから。

 

私も・・・・・・・・。

 

考えても仕方ない、何度考えても、あの子のことは判らない。

 

だから考えるのをやめる、いつも考えてそしてやめる。

 

答えの出ない問答は無意味だろうけど、判っていてもふと考える。

 

それに今は明確な“答え”を望んでいない、なんとなくだけど。

 

問答のような思考の中、いつも通りに黒い頑丈なブーツで足元を固めしっかりと紐を結い上げて足元を固める、これも男性用のものなのだが気に入っている。

 

玄関先に置いてある黒い鞄を持って扉を開け外に出る。

 

目に入った鬱陶しい日の光が気分を更に悪くする、目を焼かれるような強い光は不快感を煽り、気分を沈ませる。

 

太陽は嫌いだ。

 

 

 

                   ◇

 

 

 

―ガラン−

 

来客を告げるベルの音に反応して、これも客商売の悲しい性か反射的に顔を上げてしまう。

 

「いらっしゃい」

 

お決まりの言葉を吐き出す、声を出す前に見てそれが馴染みの客だから声に愛想なんてものは無い。

 

愛想も疲れる、出来るだけやりたくないのが俺の本心だ、喫茶店を経営する人間が考えることじゃないかもしれんが。

 

で、愛想の必要の無い客、毎朝これぐらいの時間帯に来る女、つまりは常連だ。

 

服装に、いや自分の外見に頓着しないラフな服装に乱暴な髪型の女、蒼崎尊、いつも張り付いているような気だるげな表情を今日も張り付かせている。

 

前に一度、もう少し身奇麗にしたらどうだ、と聴いたら。

 

「面倒だ、この方が楽でいい」と言われた。

 

違いない。

 

俺も客商売と言うのに相応しいとは言い辛い格好だしね、それでも適当に身奇麗で適当に清潔といったところか、それが楽でいい。

 

それに俺の目に映る常連客は乱暴な服装といい加減なヘアスタイルでも十分に映え、美を損なわないように思える。

 

粗雑とはいえ、妙に似合っている、余計な化粧や服のほうが蒼崎尊という粗雑な女の美を損なうとさえ思えるから不思議なものだ、乱れることが美をかもし出しているんだからな。

 

蒼崎尊という女は粗雑さや、無気力さが彼女の一部といえるくらいに纏わりついている、これが俺の主観による蒼崎尊の一面の評価だ、まぁ飽くまで一面だけど。

 

それに俺には着飾った蒼崎は想像出来ない、想像出来ない事は考えてもしかたが無いだろう、いつか着飾ったときを期待するとしよう。

 

そんなことを考えている俺の表情が微かに自嘲じみた笑いを浮かべているのが自覚できる、何を自嘲しているのかは俺自身にもよく判らんが。

 

世の中自分のことが一番判るわけが無いんだがね。

 

何故そんなことを考えると自問して、その“何故”が明確に自答できる人間が居るならお目に掛かりたいね。

 

「何にする、蒼崎」

 

思考をしている内に蒼崎が何時ものカウンターの端の席に座ったのを見て、注文を聞く、といっても喫茶店だ、どれも簡単なものだが。

 

毎日来る癖に、俺には蒼崎の注文の予想がつかない、いつも頼むものが違う、日によっては水とだけ言って、水だけ飲んで店を出て行ったときもある、流石にそのときは呆れもしたが。

 

メニューなんてものも見ずに完全に自分の好みで注文してくる、店主としては迷惑だが断ろうと言う気になったことも無い、無茶な注文はたまにしか無いし。

 

蒼崎以上に無茶を言う奴も知っている、あいつは無茶苦茶をいいやがる、あいつに比べれば蒼崎は可愛いもんだ。

 

「コーヒー、モカで。 後はサラダ、チキンが乗っているやつ」

 

今日はマトモのようだな。

 

俺が調理している間、蒼崎はつまらなそうに只黙って水を飲みながら指で襟足の髪を弄っている。

 

蒼崎は不機嫌かつまらなそうな表情をよくする、笑ったところなんてお目にかかったことが無い。

 

自嘲気味な苦笑いや、皮肉気な笑みは“笑った”とは言わないだろう。

 

只、髪を弄ぶ姿は女のそれで、女を感じさせ妖艶ですらあった、粗雑な雰囲気と妙にマッチして飾り気の無い女の魅力を出している。

 

俺は蒼崎のそういう雰囲気に慣れたし、感じても俺は蒼崎にそんな感情を持ちにくい、見惚れるような美貌を持つくせに相手に欲情を感じさせない、そんな蒼崎を視界に入れながらオーダーをこなしていく。

 

俺は女としてではなく、人間として蒼崎を気に入っているのかもしれない、だから女としての感情を持たないのか。

 

まあ、今は女に懲りているって言うのもあるのかもしれないがね、蒼崎を女としてみると後が怖そうだというのもあるが。

 

思考している最中も手は動き、注文のものを突き出すと無言に蒼崎はフォークでサラダを突付き、黙々と食べ、そしてモカを飲む。

 

食べ終わるのを見計らって言葉を掛ける。

 

食事中に言葉をかけられるのを蒼崎は嫌う、毎朝の事で観察した結果だ。

 

「今日はこれからどうするんだ」

 

世間話感覚で蒼崎との会話のきっかけに使う言葉、ここまで無愛想に客に話しかけるのは蒼崎だけだが、蒼崎も頓着しない、この方が俺も楽だし多分蒼崎も楽だろう。

 

それに蒼崎との会話は長く続かない。

 

「仕事、事務所に顔を出して終わりだ。最近何も無いから退屈だが。

ああ、夕食も食べに来る。それにあいつに何か伝えておこうか」

 

そうか、何も無い、とだけ俺は答えて、蒼崎は俺に気を使ったのだろうか。

 

「美味かったよ、代金だ」

 

そう言った後に残ったモカを飲み干し、代金をカウンターに置いて出て行った。

 

まぁ、ああ言ったのだから夜にでも来るだろう“趣味”が出なければ、か。

 

 

 

 

 

出て行った蒼崎の後姿を見送り、食器を片付ける、仕事をするうちに身についたルーチンワーク。

 

あいつの“仕事”か、何が面白いのやら、あの女とは正直係わり合いにはなりたくない、少なくとも今は、あの女もそうだろう。

 

いつかは嫌でも係わり合いにならんといけないんだがな、今はこれでいい。

 

それも先延ばしの言い訳かね。

 

俺は蒼崎の些細な気配りにそんなことを考えていた。

 

まぁ、あいつとて面白いと思ってやっているかどうか、あの女が上司として有能とはとても思えんが、気を使ってくれるってことは上手くやっているってことか。

 

ああ、そういえば「美味い」か、今日は機嫌がいいのかね?

 

 

 

                    ◇    

 

 

 

閑静な住宅街、出勤や通学の時間帯を外れているのであまり人は見受けられない、居たところでどうだと言う感だし、煩わしい視線を感じない分いないほうが気分が良い。

 

周りに誰も居ないほうが好ましいのは私が街を歩くといつも纏わりつくような視線を感じて、その視線が疎ましく、酷く外に出るのを嫌にさせるそれを今は感じない。

 

陰鬱な今の気分が更に陰鬱にならずに済む、人間である以上自己の精神衛生を保全しようとするのは至極真っ当な防衛機制の発露だろうから。

 

快、不快では、快を選びたい、快であれば陰鬱になりようが無い、既に陰鬱だがそれ以上にはなるまい。

 

誰もいないと言うことは気分をマシにさえしてくれる、人間嫌いなのだろうか私は。

 

そんな気分で自嘲しながら道を歩く、他に考えることがないのか私は。

 

 

 

 

 

私とて仕事はする、生活するには金が掛かるし、今は死ぬ気は無いから一個人として金銭を稼がねばならない、日本で生きるには先ず金だろう、どの国に行っても大差は無いだろうが。

 

生活を成り立たせるには致し方ないことだ、それが社会のシステム。

 

その為に外という気分を悪くさせる空間に足を踏み出して不愉快を我慢せねばならない、普段私は必要以上には出歩かない、必要がない以上出歩くこともないだろう。

 

今通っているのはつまりは職場への道だから、必要な外出だが。

 

住宅街の外れにある大きな洋館が職場、雇用主はアトリエと呼んでいるが、私から見れば薄汚くて古い建築物以外の何者でもない、廃墟といっても差し支えないと思う。

 

昔の華族が建てたそれなりのものではあるらしいが、無意味に広いだけで実用性があるとは思えない、実際使っていない部屋のほうが多いぐらいだし、手入れも行き届いていない、やっぱり廃墟か。

 

アトリエというのも、ただ私の雇用主がそう呼んでいるだけ、あの性悪女が、あの女は誰の主観でもそう評価すると私は確信している。

 

まず、アトリエと呼ぶがそもそもあいつは芸術家か?

 

今更ながら陳腐な疑問を覚える、答えの出ない謎のような気もするけど、どうでもいいことを考えつつ私は自分の鬱を紛らわして仕事場に向かい歩を進める。

 

ああ、一応私の勤め先の名前は“新月”

 

 

 

                   ◇              

 

 

 

遅刻、目の端に写る時計の文字盤を見ていると胸のうちから怒りがこみ上げてくるわね。

 

雇用主たる私がかなり前から来ているのに顔も出さない愚鈍な下僕どもに怒りがわかぬ筈が無い、怒りは正当なものだと思うのよ。

 

正しい怒りに雑然とした事務所の中に一人佇む私がなんとなく近くにある工作用ナイフで暴れたい気分になったのもいたしかたないじゃない。

 

従業員の私物を一つ一つ切り裂いてやるくらいに、精神衛生を整えるのは人間の正当な権利で、それを下僕に対して発散するのは主人の権利だと思うわ。

 

怒りというストレスを溜め込むのは美容にも悪そうだし、というか悪い、そう決めた。

 

でもそんなことよりいいことを思いついたのよ、遅刻者一人目には投げつけてやる、ナイフを。

 

そうすれば胸の怒りも多少は晴れる筈、理不尽なストレスも霧散する筈。

 

水無月辰巳たる私の行動としては相応しい、それに誰が給料を払っているか思い知らせる必要があると思うの。

 

私の作品を金に換え、下僕に給与を支払っていると言う事実を身に染みて教育、もとい調教してやる必要を今日再認識したわ。

 

そう思うと胸の奥から怒りよりも笑いが込み上げてくるのが実感出来る、愉快な気分に包まれるのは悪くない。

 

愉快な考えだろうと、頭に思い描いた時後ろで物音を感じ、私は既に手元にあったナイフを投げ放っていた。

 

我ながらいい反射神経と運動神経だと評価したいくらいに真っ直ぐにナイフは飛んでいく、まるで感じた気配に吸い込まれるように、不貞の下僕に向かって。

 

ああ、自分でもわかるさぞかし満足な顔をしているに違いないわ。

 

 

 

                   ◇

 

 

 

「何をする」

 

アトリエに入った直後に飛んできたナイフを手で払い、それを放った馬鹿女、一応私の雇用主、水無月辰巳に問いかける。

 

二十代後半くらいの女、分類すれば美人、細身のラフな服装でふち無しの眼鏡を掛け、黒のパンツに黒のシャツの上に黒のブラウス、紫の口紅、腰まで届く黒髪のロングストレート。

 

どれも似合っているが、それをぶち壊すように悪辣な笑みを湛えて微笑んでいる馬鹿女。

 

頬から首にかけて刺青を入れているが、何を模っているのかは判らない。

 

以前聞かされた記憶があるが、この女の雑言に付き合うほど私は暇じゃないので聞き流した、よって覚えていない。

 

ナイフの投擲に冷静に切り返せたのは合格だろう、この女相手に激昂しては身が持たないのは承知している、只それでも私のストレスにはなる、今もキレそうだ。

 

理由無く命を狙われて何も感じないほど温厚じゃない。

 

「ナイフを投げたのよ。 見たら判るわよね、目が悪くなった尊?それとも悪いのは頭?」

 

当たり前のように自分の行為を言葉にする、それがどうしたのという表情を浮かべ私を馬鹿にしたような微笑を向け、実際私を馬鹿にした雑言を吐く。

 

その表情と言葉に怒りを、いや殺意を私は感じている。

 

「何故? いきなりナイフを投げつけられる覚えは無い」

 

「ムカついたの、就業時刻は9時なのに未だに誰も来ないから。私が9時前には来てたったいうのに、これって怠慢よ、怠慢。それで私のフラストレーションが溜まって。だから投げたの」

 

私は時計を眺め、9時と言うよりは10時に近い、だけど。

 

「それがどうかしたか」

 

因みに本心だ、私としては毎日これぐらいにここに顔を出している、今日が特別に遅いわけじゃない。

 

「遅刻よ、だからナイフは罰ね。雇用者の権利の行使ってやつかしら」

 

キレようと思う、そのほうが建設的な気が無性にする。

 

何よりこの理不尽な女に怒りの声を溜め込むのは精神衛生上よろしくない、私の陰鬱な気分が更に悪くなる、恐らく正当な権利だろうし、権利は使用しなければ意味を為さない、使用してこその権利と言う道具。

 

道具は使ってこその道具なのだから、使わなければ塵と同じ価値しかない。

 

「それでナイフを投げたのか」

 

「ええ、だって下僕に身の程を知らさないといけないし、最近反抗的だからちゃんと躾る必要があると思って、それって主人の義務じゃないかしら。 ねえ尊」

 

紫の唇が妙に嬉しそうに動くのが、頬の刺青がそれに合わせて歪むのが癇に障る、神経を抉る、同意を求める口調が感情の琴線に触れる。

 

キレるのが正しい、よって道具を使う二つの意味で。

 

無言で雇用主に近寄り、私より頭一つ小さい、それでも160は超えているだろうが、これは私が180に近い身長の為だ、その頭にCz75を突きつけ。

 

「お前がこの時間にアトリエに来たのは何ヶ月ぶり」

 

防衛機制を働かせ正当な権利としての暴力を行使する、視線の下にいる性悪女に対する私の精神の保護は必要と判断した。

 

「さあ?それがどうかしたの。あと主人にお前呼ばわりは無礼よ、下僕ちゃん」

 

銃を突きつけられてもこの女はその人を馬鹿にしたような微笑を浮かべたままだ、その笑顔が気に入らない。

 

仮初の死ではない本物の死を望み通りくれてやる、私からのプレゼント。

 

そうすれば少なくとも夜までの私の渇きを癒してくれるに違いない、癒された心は明日の朝まで私を満たしてくれる。

 

せいぜい綺麗な花が咲くことを望む、赤い華が、陰鬱な心が晴れるように盛大に。

 

 

 

 

 

咲かなかったし気分も晴れなかった。

 

「尊、危ないわ。それに貴方のご主人様に向かって与えた銃で撃とうとする無礼、度し難い。それに“そんなもの”で私を殺せると思っているの?やっぱり躾直す必要があるのかしら、もっと利口に躾たつもりなのに」

 

馬鹿女の戯言が続く、私が撃たないと判っているから。

 

正確には撃てない、この馬鹿女銃口に手に持っていたペンを突っ込んだ、私が引き金を引く前に。

 

この状態では銃は発砲できない、弾丸の排出口を押さえられたことによって逃げ道を失った弾丸や火薬の力学的エネルギーは銃身を破壊し私にまで損傷を負わせるだろう。

 

ああ、それに思ってなどいないよこの程度でお前が死ぬとはね、この鉛玉程度でお前が死ぬものか。

 

「思っていない、でも当たれば痛いだろう」

 

だから本音を言ってやる、私が本気になってもこの女を殺す自信は正直無い、が。

 

訂正しなければならないことも在る、そのままにすることは我慢ならない、少なくとも自分という存在をそこまで貶めるほどに私は虚無的ではない。

 

歪な死を望むが、人の尊厳は持ちえているし捨てる気も無い、反論しないのはそれを認め自分を貶める行為と変わらず、自己の堕落を見過ごすことになる。

 

「一つだけ言っておく、お前がこのアトリエに11時より前に来たのは約五ヶ月ぶりだ、それに私はお前の雇用人ではあるが下僕じゃない。それに躾だと、あれは虐待って言うんだ、サディスト」

 

水無月辰巳と言う私の雇用主が自分の定めた就業時間の職場に現れたのは最近稀を通り越して無い、以前はそうでもなかったが、今は私より先に居るのは希少だ。

 

「それがどうしたの、下僕としては主人が来る前に準備を整えていなさい、やる仕事くらい自分で見つけられないでどうするの、首にするわよ。 社会性破綻女」

 

自分を棚に上げてはいるが雇われ人としての正論を言われては反論するすべが無い、仕事は与えられるだけでなく探すものと言うことも間違ってはいない。

 

でも、この女がそれを言うとムカつく、物凄く。

 

特に正論が似合わない人間に正論を言われると。

 

反論の無い、出来ない私を眺めて満足そうに刺青を歪めさせる表情が私の癇に障る、ああ、ますます陰鬱になる、やはりキレたら疲れるだけ。

 

そう言えば私が下僕と言うことを否定したのには返答すらしなかったな、この人格破綻者。

 

 

 

 

 

“新月”。

 

芸術業界で私の職場“新月”は最近頭角を出した新鋭事務所となっているが、その名前は“新月”から出される作品の総称として扱われているのが実情だろうか。

 

水無月辰巳の名は知られていない、“新月”という事務所名、いや“新月”自体が出回っている作品の総称として認知され、製作者の名前や姿は現れていない。

 

その辺の事情は水無月辰巳が自分の名を世間に出さないというスタイルをとっているため。

 

自己顕示欲は人並み異常に持ち合わせている女なのだが、実に妙な事に世間に出回る作品で“新月”としては名を売ろうとするが、水無月辰巳としては無名で通そうとする。

 

理由を詳しくは知らない、詳しく教える気が無いなら知る必要も無いだろうと、私は聴いたことが無い、話したくないことに深く関わるほうが無粋だろう。

 

それに大体想像も付く。

 

作品はノージャンル、つまりは何でも作る、絵画、彫刻、陶器、磁器、書、建築、楽器、様々に何でも作る、そういう点では辰巳は天才。

 

才能は私も認めている、それに才能や能力に人格は関係ないし、辰巳の作品の中には感動の薄い私ですら見惚れる様な美を醸し出す作品もある、辰巳と付き合うと私もすぐ怒ったりするのでそれほど感動が薄いわけでもないかもしれないけど。

 

辰巳は気分のままに一つの作品を仕上げ、出来上がった作品も気分のままに扱う、廃墟のどこかに仕舞い込んだり、完成した途端に壊したり、そして売り捌いたりする。

 

前に私に「あげる」の一言で作品を投げて寄越したこともある、他にもいくつか私が所有しているものもあるし本当に何を考えているのか。

 

支離滅裂、私が辰巳に贈る言葉。

 

“新月”では売り捌くのが私達従業員の主な仕事、辰巳の注文は出来るだけ高く、そして自分の名前、所在を秘密にすること、そのせいでえらく手間が掛かる。

 

“新月”の名前がある程度有名になった最近はその手間も天井知らず。

 

後の仕事は事務仕事や資料資材集め、製作の手伝いぐらいか。

 

仕事をこなし給与を貰う、それが辰巳との“表”の付き合い。

 

因みに従業員は私を入れて二人しかいない、辰巳を入れても三人、もう一人は未だ来ない。

 

 

 

 

 

その日、もう一人の従業員は来なかった、多分サボり、お陰で人格破綻者の機嫌は悪いものだった、迷惑なことだ。

 

 

 

 

 

 

一日の業務が終わりそうなとき辰巳は私の前に一枚のDVDを出し、記録された映像を見せた、内容はなかなかに辰巳の趣味にそぐわない内容だ。

 

ただ、それを見て。

 

ああ、今夜は退屈しないで済みそう、と軽い興奮を覚え始めている自分を自覚する。

 

それが私の心情。

 

不愉快な、不条理な、不思議な、不可能な、不道徳な、不気味な、不可解なDVDの内容を見ての私の壊れた感想、全く私はイカれてる。

 

そんな自嘲めいた評価さえ自分に下せる始末。

 

あとは一日、辰巳の機嫌が悪かった理由と、もう一人の従業員がサボりじゃ無かったってことが判ったくらいか、あいつこれを調べさせられていたな。

 

そうなると辰巳は私に投げるつもりでナイフを投げつけたのも判ったが、今更怒る気も失せた。

 

そんなことを考えるぐらいの余裕は私にはあった。

 

 

 

 

 

 

DVDは俗に言うスナッフ・ムービー、殺人風景の映像記録。

 

少女の撲殺風景、悪趣味な好事家が狂気して喜びそうな代物だな。

 

そんなものを最初から最後まで見て、私の感想はその程度。

 

 

 

 

 

 

でも、水無月辰巳の怒りは幾通りでも買える、これは。

 

 

 

3.傍観者/蒼崎尊/“新月”

 

 

 

「気に入らないわ、殺しなさい」

 

水無月辰巳は普段のどこかふざけた意地の悪い笑みではなく、冷たさを感じる声と冷徹な微笑みを表情に貼り付け蒼崎尊に告げた。

 

この表情こそが彼女によく似合う、まるでこちらが本性といえる位には嵌っている、冷たさがまるで自然だった。

 

口調と雰囲気こそ違うがそれは部下に仕事を指示するのと変わらない調子で人を殺すことを命じる、まるで何時もの事の様に、それを言われた部下たる蒼崎尊にも当て嵌まり、彼女に驚きは無い。

 

それどころか蒼崎尊の口元には微笑が浮かんでいる、皮肉気な嘲笑の微笑だけど。

 

水無月辰巳は机から書類の束を取り出し蒼崎尊に突き出し、蒼崎尊もそれを受け取りパラパラと流し読みを始める、読みながら。

 

「今日中? 得物は?」

 

蒼崎尊が水無月辰巳に問いかける、只これが芸術家のアトリエで行われる会話ではないだろう、あまりに場違いにすぎる。

 

「ええ、たいしたことの無い奴よ。貴方なら手間は掛からないでしょう、調べもあがっているしね。 得物は無し、銃とナイフで十分過ぎよ、その程度の塵」

 

「殺し方は」

 

「好きになさい。どんな風に殺してもいいわ。でも、そう希望としては出来るだけ踏み躙って侮辱してから殺してあげて、この手の男はそういう時とてもいい表情をする筈だから。先ずは心を殺してあげなさい、身の程を教育してあげるの、自分が何をしたのか“どんな存在達”に喧嘩を売ったのかをね。それを理解させてから殺してくれるのが望ましいわ。死が救済だと思えるくらいね」

 

水無月辰巳の顔、目は冷徹な光を湛えたまま口元は愉悦に歪んでいるのが判る。

 

恐ろしい笑みだろう、人の殺し方を希望しながら口元は笑っているのだから、その愉悦の先にある冷徹さは如何程か。

 

水無月辰巳は笑みを浮かべ、蒼崎尊もまた。

 

微笑(わら)っていた。

 

只、水無月辰巳とは違う、蒼崎尊は自嘲気味に、皮肉気に微笑んでいた。

 

人殺しを命じられて目の前に殺し方を希望して笑う人間を前にして微笑んでいた、自嘲気味な微笑の奥に微かな喜悦を覗かせて。

 

水無月辰巳の目は冷徹なまま愉悦に、蒼崎尊の目は普段のまま喜悦を湛え、これが二人の決定的な差。

 

水無月辰巳には変わる“何か”があり、蒼崎尊にはそれが無い、水無月辰巳は普段のままにこれから起こすことに悦んでいる。

 

普段のまま殺すことを受け入れている。

 

「判った。 ご希望に添えるかどうかは知らないが、今夜中に殺す。 これは私達の不始末だからな」

 

「そうね、私達の不始末、違いないわ。だからその始末は私達が付けないといけない、それが理よ。だけど貴方には関係ないんじゃない、貴方は私達の不始末の清算の為だけに殺すんじゃないんでしょう」

 

「・・・・・・違いない」

 

水無月辰巳の指摘に蒼崎尊はわずかな沈黙を置いて返答する、唇だけで笑みを作り上げて、それは今までで一番怖気が走る微笑。

 

その返答に水無月辰巳は肩を竦める事で受け流し、立ち上がって蒼崎尊の隣を通り過ぎて彼女のプライベートエリアとなっている場所に足を進める。

 

 

仕事を押し付けるだけ押し付けてプライベートに入るのだろう。

 

「じゃあ、報告は明日お願い」

 

背中越しに蒼崎尊に声を掛け。

 

「辰巳、ちょっと待て」

 

蒼崎尊が先程の喜悦の混じった微笑とは少し異なる意地の悪い、そう水無月辰巳のような笑みを顔に浮かべて自分の脇を通り過ぎた相手を呼び止める。

 

椅子に座ったまま体だけを後ろに向けて。

 

「今日の夕食“June”に予約していた。無駄にさせるのも悪い、辰巳が行って来い。どうせお前の夕食はデリバリーか出来合いだろ」

 

その言葉に“水無月”辰巳はピクリと体を一瞬強張らせ、物凄い勢いで振り向いたがその視線の先に蒼崎尊はいない。

 

蒼崎尊も既に立ち上がり、壁際に安置されたロッカーのほうに足を向け、水無月辰巳が何かを言う前に再度口を開く。

 

「辰巳、たまには顔を出してやれ。他人のことには興味も無いけど、一応お前は私の雇用主だから忠告ぐらいはしておく、お前達は見ていて危なっかしい」

 

「貴女に言われたくないわ、尊、貴女のほうがよほど危なっかしいわよ。それに私があのロクデナシに会いに行く必要は無いわ、向こうからそのうち会いに来るだろうし」

 

不機嫌そうに、先程の冷徹な、普段の意地の悪い表情でもなく子供のように不貞腐れた表情、それでいてどこか後ろめたさを感じていると思わせる寂しげな表情。

 

これも水無月辰巳の一面を表す表情なのだろうか?

 

「まぁ、好きにすればいいが。出来ることなら行ってくれ、折角用意させたのに無駄にさせるのも悪い、嗚呼、後あの店は最近夜は女性客に人気のようだな、誰かさんが人気者のようだ」

 

蒼崎尊はロッカーから黒い皮のロングコートを取り出し、袖を通しながら返答する。

 

そのまま鞄を携えて蒼崎尊は部屋をあとにした、彼女にしては珍しく微妙に可笑しそうに笑って。

 

 

 

 

 

暫くして水無月辰巳も深紅のコートを取り出して外に出て行った、その様子は実に不機嫌そうで、顔に不本意だと書いているような様子ではあった。

 

 

 

 

 

 

「はぁ、結局私、尊の嫌がらせに乗っているんじゃ世話は無いわね」

 

そんなこと呟いていた。

 

 

 

4 蒼崎尊/殺人鬼/虐殺風景

 

 

 

薄暗い夜道、薄っすら空に蒼が見出せる暗さ、完全に夜闇に包まれるだろう夜へと変わる時間帯、逢魔が刻とでも言うのか、不吉とされる時間帯、魔が蔓延るとされる黄昏時。

 

薄暗い中街灯の明かりを頼りに手元にあるレポート形式の書類に再び目を走らせる、これから殺す相手の情報が詳細に記述された書類、毎度のことだがよくこれだけの情報を集めたものだと感心する、あいつも仕事は出来るな、特にこの手の仕事は。

 

辰巳と同じで人格破綻者であることには違いはないと思うが、考えてみると私の知人は人格破綻者ばかりだ、能力的には優秀なのが始末に置けないし、いや嫌気がさす考えはやめよう、気分が悪くなる。

 

それに今更だ、私も人格破綻者には違いないし、傍から見たら私も同じようなものだ、いや私のほうが始末に終えないか。

 

頭で別のことを考えつつも必要なことを頭に叩き込む、情報は武器以上の道具に成り得る、と言うより情報を集めている時点で殺し合いは始まっている。

 

今までに得た経験則、無知な敵と敵を知る私、どちらが強いか、どちらが厄介か、考えるまでも無い。

 

簡単なこと。

 

そして、当たり前の事。

 

本格的に夜になって暫くした頃、目の前に古臭い洋館が目に入った、“新月”よりはマシだ、そう思ったが、大体そんなことはどうでもいい、今は気分が悪くない、陰鬱な気分もなりを潜めている、久方ぶりの殺し合い、久方ぶりの私の“趣味”たる“狩り”、私の期待は一つだけ。

 

精々楽しませろよ、屑野郎殺し合いを、もう既に始まっている殺し合いと言う狩りを。

 

久方振りに高揚している、そう人殺しをする前の何時もの感覚、期待に応えてくれよ。

 

嗚呼、気分がいい。

 

 

 

 

 

しかし、服装もお誂えだ、今の姿を自覚して自嘲せずには居られない、それを今思いつく自分にも、あまりに馬鹿馬鹿しい。

 

丈の長い黒の上着に黒尽くめ、胸には銀のロザリオ、まるで神父か牧師、つまりは聖職者の姿、長身だから遠目には男性に見えるだろう。

 

さしずめ今の役所はヴァチカンの異端審問官、それともエクソシスト、どちらにしてもあまり間違っていない、似たようなものだろうからな。

 

どちらかと言うとエクソシストに近いのだろうがね。

 

皮肉が効いていることには違いない。

 

エクソシストがキリストの教えに反する悪魔を滅ぼす者達なら、私の役目は私達の理に刃向かう愚か者を潰しに来ただけ、化け物と変わらない愚か者を。

 

其処に違いは無い、彼等は悪魔殺し我等も化け物と化した人を殺す、同じ事を為すだけ、違いは私がキリスト教徒ではないということ、また彼等のような大義もなければ大層な事をするわけでもない、お痛の過ぎた餓鬼に仕置きをしに来たようなもの。

 

私にとっては狩り、人狩り、マンハント。

 

中世最大最悪最狂の虐殺集団ヴァチカンに比べれば私は可愛いものだろうが、皮肉とも自嘲ともつかない思考を傍らに目の前を見つめ考える、目の前の門はどうしたものかなと、正面から行くか、それとも忍び込むか、僅かに逡巡して、正面から行くことにする、理由は態々忍び込むのが面倒臭い、それだけ。

 

それに忍び込んでもやることは変わらない、同じ事をするだけ、だったら無駄に疲れることも無い、それに興も殺がれる。

 

シンプルにいこうシンプルに、そちらのほうが楽しい、きっと。

 

 

 

 

 

先ずは、屋敷の周りを一回りして人気の無いことを確認する、町外れだから気にすることも無いだろうが念の為、そんな作業でも私ははやる心を押さえつけるのに苦労した、全く度し難い、恋に焦がれる小娘でもあるまいに。

 

周辺に監視装置の類が無いことを確認した後、助走無しに膝のバネのみで跳躍し門扉の頂点に手を掛けて体を引き上げる、腕力と脚力の運動エネルギーを合わせて門を越え、着地すると同時に屋敷までの敷石の上を走る、扉に向けて真っ直ぐに、そうシンプルに行こう、私に立ち向かえ狩の獲物、私の余興の為に。

 

走った勢いのまま扉に中段前蹴りを叩き込む、辰巳に嫌というほど叩き込まれた格闘術が妙なところで役立っているな、そう言えば辰巳は誰に格闘術を習ったんだ?

 

辰巳は裏も表も格闘術とは縁の無い人生を歩んでいる筈なんだがね。

 

吹き飛ぶ扉を見つめ屋敷内に視線をやりつつ、ふとした疑問に思考を傾けている自分に気付く、こんなことをしながら考える疑問か。

 

はは、他人に関心か普段からは考えられない思考だ。

 

余程高揚しているようだ、だが久々の狩り、致し方ない興奮を抑えようが無い際限なく高揚する。

 

愉快で堪らない、久方振りの狩り、久方振りの獲物、久方振りの人殺し、久方振りの闘争、久方振りの嗜好、お預けが長い分、余計に押さえが利かない。

 

楽しみで楽しみで仕方ない、でももうすぐ。

 

高揚する思考の傍ら酷く冷静な自分も自覚する、冷静な意識が先程頭に叩き込んだ書類の内容を思い出す、悪趣味な映像の撮影された部屋の位置と今日悪趣味な男がこの屋敷に居ることを。

 

獲物は逃げない、獲物は私を獲物と思っている筈、しかし私が獲物?

 

何処までそうだと思っていられるか、何処まで獲物がピエロを演じることか、楽しみではあるな、辰巳の希望には沿えそうだ、私も楽しみになってきた。

 

どんな顔をする、自分が獲物だとわかった瞬間に、どんな顔を。

 

蹴り壊した扉を踏みつけ屋敷内に足を踏み入れる、古ぼけた床を踏みしめながら私は自分の顔が喜悦に歪んでいる事を自覚する。

 

 

 

 


後書き。

 

ここまでですが、如何だったでしょうか。

管理人初のオリジナル作品です、この作品に関しては特別にコメントいたしませんが。

読了の方は感想、意見、注意点、何でもいいのでお願いいたします。


御意見、御感想はBBS MAILへお願いします
もしくはTOP頂き物の部屋

 

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送